遠矢山 (えんやざん) 大勝院 (だいしょういん)

お寺情報
お寺名 遠矢山 (えんやざん) 大勝院 (だいしょういん)
宗派 真言宗豊山派
住所 〒270-0005 松戸市大谷口145番地

由 緒

この寺は古く、根木内城の祈願寺として現在の柏市光ヶ丘付近にあった。
享禄三年(1530)、高城下野守胤吉、胤辰は根木内城が手狭になったことから、
江戸川氾濫源に屺り立った高台の地の利を得た下総国小金領大谷口村のこの地に
自然の谷を利用しながら深濠、土塁を築き上げて移転し十余万坪の城郭を完功させた。
城中には諸士の住居、城外、殿平賀には勇荘なる家臣館を構えたり、横須賀の
平地には下級家臣を配し、南方馬橋には出城を築き威風自ら四隣を圧し、城中の
鬼門に安じた三ノ丸に大勝院も移転させ、天文六年九月(1537 後奈良天皇御治世)
護持僧榮秀法印によって開山されたのである。以後大谷口城主高城一族の祈願寺として
大勝院蝉口不動日夜将兵、家臣の武運長久を祈願することから遠矢山大勝院という
全国唯一の珍しい寺名が付けられた。爾来、高城氏は勢力を得て北条氏の他国衆として
武蔵下総を指揮し遠く神奈川県綾瀬の地にも威風を轟かすのであるが、北条、豊臣両氏の
反目に及んで小田原城に敗れ捕らわれたのである。そして大谷口城も天正十八年
五月十八日(1590)浅野長政の軍門に焼亡し大勝院も焼失したのである。
徳川氏の時代には寺運を十分に復旧することはできなかった。

近世になって鰭ヶ崎東福寺末に加えられる様になってからは寺運の良きを得て
本寺格となり、高城氏領内の門末寺四十余ヶ寺を擁してその頂点に立ったのであるが、
やがて末寺の多くは事情により廃寺、あるいは合寺して現在は松戸市内等に
十六ヶ寺を旧門末寺として現存し、九ヶ寺は大勝院に合寺したのである。また、
小金八坂神社の別当寺清蔵寺の本寺であるということから、事情により徳川氏の
命を受けて、同社の御神体を護持管理をし、山内の別社に奉安すること今日まで
及んだのであるが、昭和四十八年七月同社が北小金付近の旧境内から、現在地に
移転し改築した事を記念に、十年後の昭和五十七年十月、当山代三十八世良豊に
よって小金八坂神社に遷宮鎮座させたのである。
大勝院は古くから新義真言宗の教学の道場として多くの学問僧を育成し学山として
法脈を保ち当時の論草等は総本山長谷寺宝蔵に今なお残存している。当山三十一世
義海大僧正は、後に東京護国寺貫主となり、豊山中学(現、日大豊山高校)を
創設し、豊山派管長、長谷寺化主に就いた。第三十三世與澄大僧正は松戸宝光院を
経て目白不動金乗院住職となり、学僧として新義真言宗の事相学を確立させた。
第三十六世諦禅僧正は、明治、大正にかけて、大勝院塾を設けて地域子弟の教育にあたった。

更に三十七世良洪大僧正も宗門の最高位である勧学位の学僧として活躍し大正大学々長として、
あるいは松戸市教育委員長などをつとめ教育界に尽力し大勝院幼稚園も創設したのである。
このように当山は多くの高僧を輩出させた。
昭和の戦乱後は広大な寺領のほとんどが農地解放政策によって失ってしまったのであるが、
檀徒の協力によって約二十ヶ年を経て諸堂、境内の整備が昭和五十五年完了した。
しかし翌昭和五十六年十月、暴徒によって放火、本堂、大書院等が焼失してしまったのである。
大檀越大倉邦夫氏ら、旧家檀信徒はこれに屈することなく浄財を再び寄せて
昭和五十八年八月全てを復興完成させたのである。
大谷口城は廃城と化した後も土深濠延々と残存し時の様々な推移にも著しき変遷を
見ずに三百七十年余の永き年月を続けたのであるが、昭和三十七年、ついに
地域開発の時運に抗し難くして、中世大谷口城郭の遺構の殆んどを、東急不動産
株式会社の手によって破壊されてしまい、今はわずかに当時の面影を残すのは、
当城祈願寺であった大勝院周囲の遠矢山だけとなってしまったのである。

(大勝院山門前「大勝院由緒」抜粋)

 

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